おばぁちゃん死去

父方のおばぁちゃんは、私が大学生になりたての時に息をひきとった。
この日なくなったのは、母方のおばぁちゃん。(=ぼんばぁちゃん)
#飼っていた猫の名前がなぜだか、「ぼん」という名前だったので、ぼんばぁちゃんと名付けられていた。誰がつけたかは知らない。おそらく母親。
私は子供の頃から母親が苦手で、二人のおばぁちゃん家にほとんど毎日通って遊んでいた。
よく、特性豚丼を無料で食べさせてもらっていた。(なべ屋をやっていて、お客さんの少ない昼間に豚丼をだしてもらうのだ。)
特性たれの作り方を誰も伝授してもらっていない(=引き継いでいない)のが痛い。



去年の11月、伯父さんの家の近くの病院に入院したというおばぁちゃんのお見舞いに行った。
その時は、もう痴呆が進んでいて、私のこともわからないかもよ と忠告されていたのだけど、あまり認識されない自信はなく、、千葉のはずれまで行ってきた。
なんでもご飯をあまり食べなくなってしまって・・・ということのようだったが。。


それまでは、12年前に脳梗塞(?)で倒れて左半身が動かなくなってしまい、車いす生活。
そして、施設に入れられてしまっていた。
脳梗塞で倒れる前は札幌にいて、私と同じ薬を飲んでいた。(神経質病の薬ね)
たぶん、そこまではいんだけど、もうひとつ+αの薬を飲んでいて、それは私の独学による薬知識だと、ちょっときついし脳神経系にダメージがありそうだから、やめた方がいいんじゃん?と本人に言ったことがあるのだけど、病院で処方されているからということで、安心していたようだ。
(私は、病院で処方された薬でも、結構疑ってかかる質なので、納得しないものは飲まない主義)
何がいいたいかというと、脳梗塞で倒れた原因はまさしくその+α分の薬も一因だと思うんだ。ということ。


で、リハビリなどして動くようになればよかったのだけど、うちの父のような気力(父は頸椎の手術を首をきる形で行い、それまでは半身動かなかったし、手術しても歩ける可能性は
あまり高くないと言われていたようだが、そこは昔アスリートであったことが影響しているのか、どうしても歩きたいと主張していたようで、リハビリをかなり真面目にこなし、驚異的な回復力でいまはスタスタ歩いている)はなかったようで、結局気力は下がる一方で歩くことはできなかった。
けど、その後致命的な病気にかかったという話もきかなかった。
私がアメリカに行った2000年、旅立つ前に会いにいった時は、車いすで叔父の家にいた。
そして、「私が帰国するまで(1年後)いきているかなぁ?」とぼそっとつぶやかれたのを覚えている。
また、大学生のときかな?、美空ひばり記念館(嵐山)で買ってきたハンカチを自分とお揃いでおばぁちゃんにあげたんだけど、その2000年にいったとき私がその自分の分をたまたま手にもっていた時に、「あ、それおばぁちゃんも持ってる!」と言っていたのも覚えている。
たまーに使ってるエプロン(料理するのか!?するんだよ時々)はおばぁちゃんに買ってもらったものである。(中学生の時かなぁ??物持ちいいでしょ)


結局、11月に自分を認識してもらえたか?という話に戻れば、
私の思い通り、全く迷うことなく、誰だかわかっていた。会った瞬間名前を呼ばれた。
ほらね、、、皆ぼけているというのだけど、私にはあまりそう感じなかったのである。
話をすると確かに常人が対応すると、「?」な点はあったかも知れないけど、私的には、大体そういう発言がでる心象風景がわかるので、全くとはいわないが、さほどぼけてはなかったと思うのだ。。


そこから経過すること約半年!
7月の連休くらいに、親から連絡がきた。もうそろそろまずいって。。。
病気になったのか??食べないだけで??
よくわからなかったけど、早くお見舞いにいった方がいいと言われるほど、症状がまずいようで、7月26日にお見舞いにいった。
人工呼吸器をつけられていて、体は骨と皮しかなかった。もはやしゃべることはできなかったが、私のことは認識したように思えた。
どうも、間質性肺炎になってしまったようで・・・・。それは美空ひばりがかかった病気と一緒である。。
熱も38度以上あり、呼吸がかなり苦しそう。。。
あーもうだめなのかも、、、これが生きている間に会える最後になるだろう、、、と私は思ったというか決めた。
自分の体調も5月以降あまり思わしくないので、しょっちゅう神奈川県境の東京から茨城県境の千葉まで通うことは誰にとってもよくないと思ったから。


週が開けて、月曜日(28日)、仕事中に伯父さんから電話がきた。
「もうだめかも」と。。。。うちの母親はちょうど北海道からかけつけていまむかっているところだという。
私は、既に決めていた。もう行かないと。。。行っても回復するわけじゃない。何もできるわけじゃない。
むしろ、呼吸が苦しいなら早く楽にしてやった方がいいとさえ思っていた。ただ本人の気持ちがわからなかったけど。。。。(治りたい気力があったか、なかったか。。。)


それから毎日がそわそわの連続だった、、、木曜まできて何も音沙汰がなくなったので、どうしたか?父経由で確認したところ、
どうやら小康状態という返答がきたのが、8月1日のお昼頃。
前日までは携帯を肌身離さずもっていたのだけど、その時点で携帯を鞄の中に解放。
で、、、、残業して帰っている最中。携帯確認すると弟から不在着信+メール。メールには電話をくれ とのこと。
それしか書いていなかった。
乗り換え駅で電話をしてみたら、、、、
「きいた?おばぁちゃん、死んだ」って。。。。。
「そうか、わかった。。」
と自宅に戻った私。


葬儀の予定などもバタバタの中で決まり、3日/4日で行われることになった。

私には喪服がない。。。。。。。。。。。。。。。。。
途中で買いにいく選択肢もあったんだけど、死ぬのをまっているみたいで嫌すぎて買いにいけなかった。
結局8月2日に買いにいった。。。
着物がよかったんだけど、北海道からもってくるの嫌だと言われたので。。。



歳をとるとどんどん死んでいく人が増えるのね。当たり前だけど。。。